02 那須野ヶ原の生い立ち那須野ヶ原の歴史は、すなわち開墾と治水の歴史
不毛で歴史のない土地、那須野ヶ原
那須野ヶ原の歴史は、すなわち開墾と治水の歴史です。日本のように長い歴史を持つ国の中でも、わずかに100年程度しか歴史がないというのは珍しいことかもしれません。正確にいえば槻沢(つきのきざわ)遺跡という縄文時代(およそ4500年前)の遺跡もあり、まったく歴史のない土地ということではないのですが、長らく誰も見向きもしなかった不毛の土地であるため、史書に残るような歴史がありません。
奥州街道が通っていたため、江戸期などには多くの人が那須野ヶ原を歩いて東北へ、あるいは北から江戸へと移動はしていました。こうした旅人が那須野ヶ原を通過しています。水利が悪く水田に向かない那須野ヶ原は人の手が入らない原野でした。江戸時代、山崎北華の紀行文「蝶の遊」に次のように書かれています。
聞きしに違はず。竪さま八十里。横或は廿(二十)里。或は十二三里の原なり。草もいまだ長からず。木といふものは。木瓜(ボケ)さへもなし。炎暑の折など如何にぞや。手して掬ふ(すくう)水もなし。
「ウワサに聞いていたとおりだ。日差しを避ける木々もなく、生えている草も短く、なにしろすくって飲めるような水がない。これで炎暑の日だったらどうするのか」と言っています。冒頭で那須野ヶ原の大きさについて二十里か十二~十三里のように書いていますが、一里をおよそ4キロメートルとすると、少々大げさなサイズ(二十里で80キロメートル)で表現されているようですが、それほど広大な不毛の地と思われていたということなんでしょう。
ただし無人の地ということではなく、牛馬のえさである「まぐさ」を得るために村で共同総有した入会地として使われ、焼き畑のために毎年春先に火を放って一帯を焼いていたという記録もあります。焼き払うことで灰が養分となり、次のまぐさが育つという原始的な農法です。もちろん街道の宿場町としても、ある程度は人が住んでいたのでしょう。
水利の薄い那須野ヶ原ですが、那珂川や箒川の近くであるとか、箒川が那珂川に合流するあたりでは、水無川である蛇尾川も水が地中から出てきて普通の川のように流れていますので、ある程度は人が暮らすこともできたはずです。ただし本格的に水田を拓いて米を作るといったことはむつかしく、前述のまぐさ取りなど限られた用途目的以外で那須野ヶ原に足を踏み入れていた人は多くはなかったことでしょう。
蟇沼用水と御用堀
那須野ヶ原は荒れているとはいえ、広大な土地ですからなんとか開墾できないものかと、その時々の有力者たちが考えます。記録に残っている最も古い開墾事例が蟇沼(ひきぬま)用水です。
那須野ヶ原はいくつかの地域に分けることができます。那珂川の南岸を那須東原、箒川と蛇尾川に挟まれた地域を那須西原と呼びます。この2つの地域の他に、那須東原の南東に糠塚原、那須西原の南東には湯津上原という小さな地域も存在します。
火山灰が多く、吸水性が高い那須野ヶ原では水は地下深くまでしみこんでしまい、貯水池が作れません。地面にしみこんだ水によって、地下水の水量そのものはあるものの、数十メートルから、場合によっては100メートル程度を掘らないと井戸水がくみ上げられません。当時の土木技術では絶望的な深さです。
江戸時代、慶長年間(1596年 - 1615年)に那須西原の折戸・上横林・横林・接骨木(にわとこ)の四か村が、この地に初めての用水を作りました。蛇尾川が地面に潜って伏流水となる手前の部分(この土地が蟇沼)から取水し、接骨木まで五か村を流れる、飲料用の用水です。接骨木までの用水であったため接骨木堀(にわとこぼり)と呼ばれます。那須野ヶ原で初めての用水建設に成功したものの、残念ながら水量が少なく、灌漑用途にまでは使用できなかったといわれています。その後、接骨木堀は上井口、下井口、富山、高柳、石林とさらに下流の村々まで延長されます。この延長期に接骨木堀から蟇沼掘へと、その呼び名が変わります。
最初の接骨木堀開削から、およそ180年後の1771年(明和8年)、この地を治めていた大田原藩が城下に飲料水を引くために蟇沼掘の延長を画策します。元々水量が少なく、安定しない用水の延長に対して、流域の住人は強く反対しますが、工事は強行されて2ヶ月程度で大田原城下までの延長が完了します。ここで蟇沼堀は大田原用水あるいは御用堀と呼ばれるようになります。
城下まで引いてはみたものの、やはり住人たちの懸念どおり水量は芳しくなく、開通から数年後に抜本的な改革として、用水構造の改修と、水源である蛇尾川の堰き止め工事がおこなわれました。これまで源流側にはなんら手を入れていなかった用水ですが、現代でいうダムのような仕組みを導入することで水の供給安定度を増加させるという大きな転換点となります。
それでも水量が爆発的に増加したわけではなく、用水周辺の村々はこれまでどおり飲料水限定とし、大切に水を使っていきます。この飲料水用途への限定は藩令にもなります。明治に入って、のちに述べる那須疏水が完成するまで、およそ300年以上にもわたって流域の人々は蟇沼用水を大切に使っていたわけです。
那須疏水が引かれたことによって、蟇沼用水も灌漑用途へと転換しようと動きます。しかし、いくどかの改修をおこなっていたものの、もともと江戸期の用水であったため、洪水などの水害被害で取水口が損傷したり、流量が少なかったため上流域と下流域での水利権騒動などもあり、修理が滞ることも少なくありませんでした。1900年には、こうしたトラブルを乗り越えて岩肌をくりぬいた新たな取水口が設置され、さらに大正初期には水門の整備も進んで水量が増え、灌漑用途に耐えうるだけの用水に改修されました。
穴沢用水と山口堀
那須西原で蟇沼用水ができてからおよそ150年後、那珂川よりの那須東原にも穴沢用水と呼ばれる水路が開削されました。穴沢用水の工事は1763年から1765年まで、3年かかったといわれています。穴沢用水は、那珂川の支流のひとつ木ノ俣川から水を取り入れて、穴沢集落まで水を届けています。途中に岩盤を削ったトンネルを掘ったり、勾配のきつい個所を通したりといった当時としてはかなりの難工事でした。用水完成時には三日三晩にわたる祝宴が催されたという言い伝えもあるほど、この用水は周辺住民に歓迎されます。今でも用水の取り入れ口でおこなわれた水神祭を描いた絵が残っていて、那須塩原市の指定文化財になっています。
穴沢用水の開削から50年ほどたった文化年間(1804年 - 1817年)には、当時の代官、山口鉄五郎によって用水の延長工事がおこなわれました。那須西原の御用堀に対し、こちらは代官の名をとって"山口堀"と呼ばれます。穴沢用水あらため山口堀は、蟇沼用水、御用堀のような飲料水源としてではなく、田畑に水を入れるための灌漑用水として計画されており、このことから御用堀よりも水の流量が豊かであったろうことがうかがわれます。
山口堀は200ヘクタール以上の水田に水を入れるという壮大な計画でした。水路は延長され、開墾した水田に引き込まれます。ところが計画どおりの結果が出ません。おそらく用水が提供する水量の問題ではなく、いくら水を入れても吸い込んでいくという地質側の問題ではなかったかと思われます。引いてはきたものの、ただただ地面に吸い込まれていく水――。それから100年後の幕末期、開墾された水田は荒れ地になり、山口堀にもほとんど水が流れていなかったといいます。
那須西原の蟇沼用水、那須東原の穴沢用水。ともに不毛の地である那須野ヶ原に人の手で初めて水を引いたという事績は大きなものでした。しかし、2つの用水がなしえたことは、ほぼ飲料水の確保にとどまり、この地を緑豊かな農産地へと変えるにはいたらなかったのです。
那須疏水
次に那須野ヶ原に水を入れようという動きがでたのは1885年です。山口堀(穴沢用水)からさらに70年ほどたった、明治18年のことでした。那須疏水とよばれる灌漑水路が開削されたのです。
那須疏水の開削にはちょっとした当時ならではのエピソードが残っています。時代は明治となり、初代の栃木県令(今でいう県知事)となった鍋島貞幹(のちに改名し鍋島幹)が那須と東京を結ぶ大運河構想をたてます。自動車も鉄道もない明治時代、内陸部で大量の物資を輸送する唯一の方法は水運でした。東京との水運経路を拓けば栃木県は大きく発展するはずです。この着眼点はすばらしいのですが、当時の土木技術から考えると、少し話が大きすぎました。当然、この計画は頓挫します。
運河計画そのものは頓挫したものの、東京まで引くといわなければ水路そのものは拓けるのでは――当時の那須地方に印南丈作と矢板武という二人の実業家がおり、彼らは那須野ヶ原を灌漑するために、那珂川から水路を引くという構想を立てました。東京からそれほど遠くない150㎞という距離、もしこの地を生産地にすることができれば、地域の大きな経済発展を期待できます。しかし民間主導での計画は遅々として進まず、時間だけがむなしく過ぎていきます。
この計画を具体的に前進させたのが第3代栃木県令の三島通庸です。三島は、反対派を押し切ってでも土木工事をすすめるという、その強引な政策から「土木県令」や「鬼県令」とまで呼ばれた人物ですが、山形県令時代にも隣県に繋がる主要道路の整備、トンネルの開削、病院や学校、役場の建築などで辣腕を発揮していました。開墾にも熱心で、印南と矢板の話を聞き、那須野ヶ原開墾を強く後押し、自らも肇耕社―後の三島農場―を開設、入植者を募集して那須野ヶ原の本格的な開墾をはじめます。
印南と矢板、そして三島の働きかけによって、那須野ヶ原の開墾事業は、当時の内務省から正式に国策としての開墾事業と承認され、いよいよ那須疏水の工事が始まります。1880年、明治13年のことです。
那珂川の上流、西岩崎に頭首工(水をせき止める堰)が建設され、幹線水路16㎞がまず完成(1885年 明治18年)します。工事には福島県の安積疏水を採掘した熟練工も呼ばれ、わずか半年たらずで完成します。数百年、不毛の地であった那須野ヶ原が、水で満たされた画期的な瞬間です。翌年からは支線水路の工事に取りかかり、支線総延長は46㎞となります。
那須疏水の工事には国から当時のお金で10万円が拠出されましたが、この10万円という額は同年の内務省土木局の年間予算100万円の1/10にあたります。国家規模の大事業であったことがわかります。那須疏水の拡張は、その後1905年(明治38年)と1923年(昭和3年)にもおこなわれています。
水が届いただけではなく、入植者の手によって土の中から大きな石を取り除く地道な除礫作業もあり、せっかく届いた水が地面に吸い込まれていくことがないよう、土地の改良もおこなわれていきます。
旧木ノ俣用水
旧木ノ俣用水は那須疏水以前にも記録がある用水路の一つで、1763年(宝暦13年)から1765年(明和2年)にかけて開削された穴沢用水を起源としています。
開削以降、下流の12ヶ村の飲用水として用水を延長し、生活用水として地域に貢献してきました。
その後、水田開発の意欲とともに用水の改修等が行われ、水田灌漑も可能となりましたが水田や用水路は次第に廃れていき、幕末にはほとんど水が流れていなかったとされています。
1891年(明治24年)から翌年にかけて再び水田開発を目指し、水路の大改修や流路変更が行われ、戦後は高林地区の開拓団による新しい開拓地を潤しました。
1893年(明治26年)に開削した新木ノ俣用水に対して、旧木ノ俣用水と称されるようになりました。
国営那須野が原開拓建設事業によって流路の統廃合が進み旧木ノ俣用水の水路はあまり使われなくなっており、古い流路の一部は那須疏水の排水路などに転用されています。
新木ノ俣用水
新木ノ俣用水の取水予定地の下流には既に旧木ノ俣用水・那須疏水があったため、開削にあたって土木的な問題以前に、水利権の問題がありました。
旧木ノ俣用水の関係者からは強く反対され、那須疏水組合からは既得権が優先されるという水利権上の不文律がそのまま文書化されたような不利な契約を結ばされました。
それから、絶壁数十mの位置にトンネルを掘るという過酷な工事を経て1893年(明治26年)に開削されましたが、苦労して建設した用水にも関わらず、数年で水はあまり流れなくなってしまいました。
関係者はなんとかして修復工事を行おうと考えましたが、資金不足の問題があったため、資金調達のため東奔西走し、持っていた水利権の三分の一を東那須野村に譲ることで1917年(大正6年)大改修工事を行いました。
その後、1966年(昭和41年)には、台風による増水によって隧道内に崩壊が生じたため、約60人によって復旧作業が行われました。
その際に使用していたガソリン発電機の排気ガスにより隧道内の一酸化炭素の濃度があがり25人の犠牲者を出す大事故がおきましたが、国営那須野が原開拓建設事業において取水口や用水路の改修を受け、今なお木の俣川の清流を流し続けています。
ダム開発と近代化
開削から数十年が経ち、経年変化や洪水被害、戦中戦後の資材・労力の不足が水利施設を一層老朽化させ、その都度行ってきた護岸工事だけでは対応しきれず、施設の全面的な改修整備の必要性が強く感じられるようになっていたのです。
加えて、農家が意欲的に営農を展開していく中、那珂川とその支流木ノ俣川の取水量には限界がきていました。
こういった背景から、これまで計画しては実現できなかった新たな水源の確保、つまりダムによる水源開発を中心とした那須野ヶ原総合開発の実現に向けて、地元農家、市町村、県そして国一体となった運動が展開されていくことになります。
度重なる調査、さまざまな課題を乗り越え、三十数年間にわたって積み重ねられてきた那須野ヶ原開発の構想・調査計画が実現化を迎えました。
構想の中核となる大規模な水源開発では、表面アスファルト遮水壁型ロックフィルダムというダム築造の新技術を導入することによりダムサイトの課題を打開。
この新技術の導入実績としては、当時、我が国最大のものとなった深山ダム(有効貯水量:20.900千㎥)をはじめ、板室ダム(有効貯水量:170千㎥)、赤田調整池(有効貯水量:1.200千㎥)、戸田調整池(有効貯水量:1.019千㎥)と4つの水源施設が新設され、約4,300haの農業用水を確保しました。
また、那須野ヶ原は開拓するにも未墾地には数多くの既成田が介在していたため、本事業では開拓と同時に区画整理・既設水利施設の整備が必要とされ、農地造成・農業用排水・区画整理の三事業が一体となって展開されました。
この総合開発の特筆すべきこととして、疏水本幹のような幹線水路から支線水路・連絡水路が新設・改修されたことと、なにより、それまで独立していた那須疏水、蟇沼用水(ひきぬまようすい)、旧木ノ俣用水、新木ノ俣用水、さらに根室ダムを取り入れ口とする上段幹線が事実上合体したことにより、水の配分方法や管理体系は抜本的に変わり、那須野ヶ原を潤す新たな大動脈が完成しました。